柏市東部、手賀沼に近い田園地帯に、茅葺き屋根の古い建物が残っています。
外から見ると昔ながらの農家のようですが、その正体は「旧手賀教会堂」。明治14年(1881)に民家を転用してつくられた、日本ハリストス正教会の教会堂です。
現在では、現存する日本唯一の茅葺民家転用教会堂であり、首都圏に現存する教会堂として最古とされています。

それにしても、なぜ明治初期の手賀にキリスト教の教会が生まれたのでしょうか。
その背景をたどっていくと、現在の静かな田園風景からは少し想像しにくい、かつての手賀の姿が見えてきます。
旧手賀教会堂とは?茅葺き民家から生まれた教会
旧手賀教会堂があるのは、柏市手賀666-2。
千葉県教育委員会によると、明治14年(1881)11月に民家を増改築し、日本ハリストス正教会手賀正教会の教会堂とした建物です。
柏市では「現存する日本で唯一の茅葺民家転用教会堂」であり、「首都圏で現存する教会堂としては最古」としています。
現在は千葉県指定有形文化財(建造物)であり、柏市指定史跡でもあります。
特徴的なのは、やはりその姿です。
一般に「教会」と聞いて思い浮かべるような洋風建築ではありません。寄棟造りの茅葺き屋根を持つ建物で、もともとは近隣の民家を移築したと伝えられています。
では、なぜこの場所に教会がつくられたのでしょうか。
その歴史は、明治初期までさかのぼります。
キリスト教解禁後、正教は千葉県北西部へ広がっていった
江戸時代にはキリスト教が禁止されていましたが、明治6年(1873)にキリスト教禁制の高札が撤去されました。
一方、日本で正教の布教を進めていたのが、ロシアから来日した修道司祭ニコライです。
ニコライは文久元年(1861)に函館へ入り、その後、仙台や東京などへ活動を広げていきました。
千葉県内でも明治8年(1875)に法典、明治10年(1877)には大森・船穂・布佐などに教会が設立されます。
現在の地名で見ると、船橋市、印西市、我孫子市などです。
つまり手賀だけに突然キリスト教が伝わったわけではなく、明治初期の千葉県北西部では正教の布教が少しずつ広がっていました。
その流れのなかで、手賀・布瀬地区の人々も大森教会で行われていた布教を知ることになります。
そして明治12年(1879)、手賀の人々によって手賀ハリストス正教会が設立されました。
教会をつくったのは、手賀で暮らしていた人々だった
旧手賀教会堂の歴史で注目したいのが、教会成立の担い手です。
柏市教育委員会の『旧手賀教会堂保存修理工事報告書』によると、正教会の受洗者名簿には、湯浅長左衛門をはじめ13人の名前が記録されています。
湯浅家は、手賀村で名主を務めた家でした。
つまり、外国から来た宣教師が手賀に洋風の教会を建て、そこへ村人が集まった――という単純な歴史ではありません。
手賀で暮らしていた人々自身が新しい信仰を受け入れ、地域の中に教会を成立させていったのです。
明治12年(1879)の教会成立から2年後の明治14年(1881)、現在の旧手賀教会堂が設けられました。
その際、新しい洋風建築を建てたのではなく、近隣にあった民家を移築したと伝えられています。
なお、「なぜ民家を転用したのか」という具体的な理由については、今回確認した公的資料からは断定できません。
資金面などの理由を想像したくなるところですが、根拠が確認できない以上、推測は避ける必要があります。
ただ、明治初期に入ってきた新しい宗教のための空間が、地域にあった日本の民家を利用してつくられたことは確かです。
この組み合わせこそ、旧手賀教会堂の大きな特徴といえるでしょう。
なぜ農村の手賀で、新しい宗教が受け入れられたのか
ここで一つ疑問が残ります。
なぜ当時の手賀で、正教という新しい宗教を受け入れる人々が現れたのでしょうか。
この問いを考えるうえで興味深いのが、柏市教育委員会の保存修理工事報告書です。
報告書では、手賀地区が古くから水上交通の要衝として発展してきたことに注目しています。
現在では手賀沼周辺というと田園や自然のイメージが強いかもしれません。しかし鉄道や自動車が交通の中心になる以前、水上交通は人や物を運ぶ重要な手段でした。
江戸時代に利根川舟運が発達すると、利根川は地方と江戸を結ぶ物資輸送の大動脈となりました。
手賀沼や利根川に面した地域にも、人だけでなく物資や情報が運ばれてきます。
柏市教育委員会の報告書では、手賀地区について、水上交通の要衝として新しい情報が伝わりやすい地域だったとし、そうした土地の性格と、新しい文化や知識を学ぼうとする人々の存在を、手賀正教会成立の背景として挙げています。
ここは重要なポイントです。
「農村だったから、新しい文化とは縁遠かった」とは限らないのです。
むしろ水上交通の時代には、手賀は外から人や情報が入ってくる場所の一つだったと考えられています。
正教が手賀で受け入れられた理由を舟運だけで説明することはできませんが、当時の手賀が外の世界から切り離された土地ではなかったことは、教会成立の背景を考えるうえで興味深い事実です。
明治33年、民家だった建物に「聖堂」が加わった
明治14年(1881)に教会堂として使われ始めた旧手賀教会堂ですが、現在見られる姿が最初から完成していたわけではありません。
大きな変化があったのは明治33年(1900)です。
この年、本屋の東側に聖堂部分が増築されました。
記録によると工事は同年中に完成し、翌明治34年(1901)に落成式が行われています。
柏市の説明では、この増築によって半円アーチ窓や左右対称の聖堂が加えられ、和洋折衷の教会堂になったとされています。
つまり旧手賀教会堂は、
「日本の民家を教会堂として使い始める」
↓
「その後、聖堂部分を増築する」
という段階を経て、現在につながる姿へ変化していったことになります。
茅葺き屋根の日本民家と、教会らしい半円アーチ窓。
旧手賀教会堂の独特な外観には、手賀で正教が根付いていった時間そのものが刻まれているようにも見えます。
山下りんが描いた3点のイコンも手賀へ
旧手賀教会堂の歴史を語るうえで、もう一つ欠かせないのが「イコン」です。
イコンとは、正教会で信仰の対象として用いられる聖画のこと。
手賀教会には、
「主全能者(キリスト)」
「至聖生神女(マリア)」
「機密の晩餐」
の3点のイコンが伝わっています。
作者は、明治期に日本の正教会でイコン制作を担った山下りんです。
保存修理工事報告書で紹介されている当時の記録には、明治33年(1900)の聖堂増築に関連して、ニコライから3面の聖像が贈られたことを示す記述があります。
現在、この3点は旧手賀教会堂ではなく、昭和49年(1974)に建てられた現在の手賀ハリストス正教会へ移され、今も信仰の対象となっています。
通常は公開されていませんが、旧手賀教会堂ではレプリカを見ることができます。
3点の聖画も旧手賀教会堂と同じ平成24年(2012)3月16日に、千葉県指定有形文化財となりました。

茅葺きの日本民家を転用した空間に、正教会のイコンが掲げられていた。
旧手賀教会堂は、明治期の手賀で異なる文化がどのように地域の中へ入っていったのかを、建物と美術の両方から伝えてくれます。
ニコライ本人も手賀を訪れていた
手賀と日本正教会のつながりを示す記録は、教会堂だけではありません。
明治25年(1892)10月11日から13日までの3日間、ニコライ本人が布教巡回のため手賀を訪れています。
そのときの日記には、手賀や周辺地域で行った礼拝や布教活動だけでなく、信徒の家を訪問したことや、舟で移動したことなども記されています。
当時のニコライの行動を追うと、手賀沼周辺で水上交通が身近な移動手段だったこともうかがえます。
現在の旧手賀教会堂を眺めるだけでは分かりませんが、ここには日本正教会の歴史を代表する人物が実際に訪れていたのです。
教会堂なのに、人が暮らしていた時代もあった
旧手賀教会堂には、さらに意外な歴史があります。
礼拝のためだけに使われていたわけではありません。
柏市教育委員会の保存修理工事報告書によると、旧手賀教会堂は信者の礼拝の場であると同時に、集会所としても使われていました。
さらに戦時中には疎開してきた家族が暮らした時期があり、戦後も昭和30年代までは教会堂を管理する人が住んでいた時期がありました。
建物の中には生活の場と教会としての神聖な空間が共存していたのです。
保存修理に伴う聞き取り調査では、台所で煮炊きをしていたことや、3畳間を勉強部屋として使っていたことなども分かっています。
柏市教育委員会の報告書では、こうして疎開者や管理者が住んでいたことが、結果的に建物の寿命を延ばすことにつながったと考察しています。
教会堂であり、集会所であり、一時期は人々の生活の場でもあった。
旧手賀教会堂が現在まで残った背景には、文化財として保存される以前から、建物が地域の中で使われ続けてきた歴史もありました。
新しい教会堂が完成し、旧教会堂は文化財へ
昭和49年(1974)、現在の手賀ハリストス正教会の新しい教会堂が別の場所に建てられました。
日本ハリストス正教会の公式サイト(https://www.orthodoxjapan.jp/annai/t-tega.html)によると、現在の聖堂は1974年10月に成聖されています。
現在の手賀ハリストス正教会は柏市手賀422にあり、「聖使徒神学者・福音記者イオアン聖堂」と呼ばれています。
役目を終えた旧教会堂は、翌昭和50年(1975)に当時の沼南町が土地と建物を取得しました。
同年には沼南町指定史跡となり、保存修理が行われます。
その後、平成17年(2005)の柏市と沼南町の合併により柏市指定史跡となり、平成24年(2012)には千葉県指定有形文化財(建造物)に指定されました。
さらに令和2年度(2020年度)には大規模な保存修理工事が実施され、令和3年(2021)4月10日にリニューアルオープンしています。
現在は一般公開され、建物内部を見学することができます。
実際に旧手賀教会堂を見学するには
ここまで歴史をたどってきた旧手賀教会堂は、現在、実際に内部を見学することができます。
柏市の現在の案内では、所在地は柏市手賀666-2。開館時間は午前10時から午後4時まで、入館料は無料です。
開館日などが変更される可能性もあるため、訪問前には柏市の最新情報を確認しておくと安心です。
柏市「文化・歴史体験」旧手賀教会堂の見学案内
https://www.city.kashiwa.lg.jp/city-promotion/shiseijoho/about_kashiwa/kashiwa_deviewn/culturalproperty.html
旧手賀教会堂から見えてくる、もう一つの柏の近代
「なぜ柏の農村に教会が生まれたのか」。
その答えを、一つの理由だけに求めることはできません。
しかし歴史をたどると、明治初期に千葉県北西部へ正教の布教が広がり、その中で手賀や布瀬の人々が新しい信仰を受け入れたことが分かります。
さらに柏市教育委員会の調査では、当時の手賀が舟運を通じて人・物・情報が行き交う地域だったことも、教会成立を考える背景として指摘されています。
そして教会をつくった人々が選んだのは、立派な西洋建築ではなく、地域にあった民家でした。
その建物はやがて聖堂を増築し、山下りんのイコンが掲げられ、礼拝や集会に使われ、ときには人々の生活の場にもなりました。
現在の手賀に立つ旧手賀教会堂を見ていると、昔から変わらない農村風景の中に古い建物が一軒残っているように見えるかもしれません。
しかし、その茅葺き屋根の下には、明治という新しい時代を迎えた手賀の人々が、外から入ってきた文化や思想と向き合った歴史が残されています。
旧手賀教会堂は、柏の農村に残された古い建物であると同時に、柏が近代へ移り変わっていった時代を今に伝える場所なのです。
